死んだほうがましだという考えから抜け出せない
死んだほうがましだという考えがずっと頭の中を駆け巡って、
延々と「なんで死なないんだろう」って自問自答する。
気が付くとどうやって死のうかと考える。
首吊りなら手ごろなロープがある。
でも肝心の首を吊れるような場所がない。
練炭なら道具がない。
買うまでに実家暮らしだからばれてしまう。
薬物を大量摂取するのは一度やった。
死ななかった。ただ苦しんで終わった。
リストカットで死ぬなら手首を切り落とす勢いで切らねば。
そんなに深くは切れない。
首を切るのも同様。
私の手元にそんなに鋭利な刃物はない。
飛び降りるにも、我が家は高さが足りない。
病院送りされるのが目に見える。
冬になったら雪山でも行こうかと考えたりする。
そうしたら、勝手に凍死するだろうし、
何より運が良ければ死体が見つからずに済むだろう。
渡辺淳一の「自殺のすすめ」で
雪山で投資による自殺を遂げた女性のことが書かれていた。
彼女の下半身は雪から露出していたがために腐敗が進んでいたが、
雪に埋もれていた顔は元の美しいままだったという。
生きていてもいつか死ぬ。
あと30年も生きれば私は老いる。
不自由な体を引きずって
醜くなって生きることは果たして幸せなことか?
どうしてこれから来るであろう不幸のうず高い山を見据えながら
来るかもわからないわずかな幸福をあてにして
血反吐を吐きながら生きなければならないんだ。
どんなに幸福であろうとも、
その幸福な時間は生きるにつれて日常に薄められ、
いつかは忘却する。
ならば、幸せが最高濃度であるときに死ぬことは
人生をより幸福に生きるために有効ではないのだろうか?
生きる意味など、この世界にはない。
でも、自分なりの生きる意味を持たなければ生きていけない。
私にはそれが見いだせない。
未来は真っ黒で、現在の私は傷ついて歩くのもやっとだ。
もう歩きたくない。
でも死ぬ勇気もない。
私たちは偏在する自殺の機会に囲まれ、
自殺をとどめるものなどいないというのに
勇気がないため自殺できない。
これは一種の停滞であり、絶望だ。
私たちは生きるという怠惰な選択の中で死を望みながら生きる。
これじゃ死んだほうがましだ。