葬式で笑えるか
このブログのタイトル
「葬式で笑えるか」
………まぁ、無理っすよね!!
葬式で笑うなんて、非常識的だし。
大体葬式は悲しむ場所であって、笑う場所じゃないっすよね。
では、なぜこの「葬式で笑えるか」なんてタイトルをつけたのか。
それは、先日亡くなられたさくらももこ先生に由来します。
先生の「メルヘン翁」を再読し、人の死で笑うとはいかなることか、考えされられました。
有名な話ですが、さくらももこ先生は実際の祖父のことが大嫌いだったとか。
……その気持ちすっごいわかります!!
私も祖母大っっっっ嫌いですもん。
(毎日早くタヒねっ!!って思ってますよ)
いくら血の繋がった家族だからって、
いや、むしろ血の繋がった、
毎日顔を合わせる家族だからこそ、
憎くなるし、嫌いにもなるんです。
逃げ場ないですもん。
話は逸れましたが、
さくらももこ先生は祖父が亡くなった時に、
その死に顔のあまりの面白さに笑ってしまったとか。
私はここがどーにも引っかかるのです。
さくらももこ先生の倫理観がおかしい!
とか言う気は毛頭もありません。
ただ、もし私の大っっっっ嫌いな祖母がアホ面晒して死んでいたとしても、
果たして私は笑えるのか?という疑問があるのです。
笑うとは一種の文化的な作用であると思うのです。
一定の常識やら文化やらのバックボーンが備わっていて、始めて目の前に出されたもののおかしみが理解できると思うのです。
よく、国や地域によって笑いのツボが違うなどと言いますが、それは文化の違いに相違ないと思います。
また、笑うとはただ面白いものがそこに転がっているだけではできません。
その場の空気なり、状況なりが整っていないと笑えないのです。
よって笑うとは私たちが思っている以上に高度で難解なものだと考えられます。
一方泣く方はどうでしょう。
涙は生理現象と深く結びついています。
目の中にゴミが入れば、たとえどんなにおかしくったって涙が出ます。
目が乾燥しても同じです。
また、悲劇は喜劇に比べて非常にありきたりなものです。
大抵の悲劇は誰かとの離別(それは死による別れだったり、戦争によって敵国同士になりあえなくなるなど)です。
まさにワンパターン、型が決まっているのです。
もちろん、泣くのにも雰囲気などは重要ですが、泣くためには雰囲気に頼るよりも内から湧き出る感情の力に任せる方がよっぽど泣けるでしょう。
そう、泣くとはどちらかというと本能に近いところ。
だからこそ、その本能のスイッチさえ押せてしまえば、あとはどうってことないのです。
泣くことはコントロールし難い面がありますが、それこそが本能に近い行為であることの証明であり、
かつ、万人に当てはまる型がある、比較的安直な行為であると言えるでしょう。
つまり、まとめますと……
笑うということは、文化的活動。よって難しい行為と言える。
一方、
泣くことは本能に隣接した行為。よって比較的簡単な行為。
以上のことから、
「葬式で笑うのは難しい!」と言えると思います。
なんてったって、泣いている人の前で笑うほど私たちは強くないですしね。
しかし、私はいつかは葬式で笑いたい。
死人の入った棺桶に釘打つその時に、
この世から消える人に向けて、
大きな声で笑いたいのです。
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